内科・小児科・アレルギー科・リハビリテーション科
吉川内科小児科 生薬方剤による漢方診療(保険適用)

吉川内科小児科は、愛知県名古屋市中村区、名古屋市立豊臣小学校の西にある内科小児科医院です。
高血圧や、肥満などメタボリックシンドローム、リセット禁煙、漢方診療(保険適用)を中心に
内科・小児科・アレルギー科・リハビリテーション科の診療をしています。お気軽にご相談ください。

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吉川内科小児科 生薬方剤による漢方診療(保険適用)

吉川内科小児科は、愛知県名古屋市中村区、名古屋市立豊臣小学校の西にある内科小児科医院です。高血圧や、肥満などメタボリックシンドローム、リセット禁煙、漢方診療(保険適用)を中心に内科・小児科・アレルギー科・リハビリテーション科の診療をしています。お気軽にご相談ください。

徒然日記

青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開

『青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開』編集委員会 編   2015年11月16日初版発行

我(わ)が初等学校にも「昭和19年8月23日を期して伊豆(いず)の落合楼(おちあいろう)に3年生以上の全員を集団(しゅうだん)疎開(そかい)させよ」との通知が来た。学校は丁度夏期休業中であったが、急遽(きゅうきょ)父母会を招集(しょうしゅう)して善後策(ぜんごさく)を協議(きょうぎ)した結果(けっか)、3年生以上(いじょう)で縁故(えんこ)疎開(そかい)のできない者181人を落合楼(おちあいろう)に集団(しゅうだん)疎開(そかい)させることとした((1))。

(1)『青山学院初等部50年のあゆみ』青山学院初等部、1987年,37貢。

 

 2 湯ヶ島のこと              5期生 山城(やましろ)(高柳(たかやなぎ))喜美子(きみこ)

戦争(せんそう)前、戦争(せんそう)中、そして戦後(せんご)と、3つの異(こと)なった時代を初等部で過(す)ごした私達(わたしたち)にとって何といっても想い出深い出来事は集団(しゅうだん)疎開(そかい)だといえましょう。戦争(せんそう)がそろそろ酷(ひど)くなった昭和19年8月のある日、当時4年だった私達(わたしたち)はわけもよく判(わか)らないまま父母に附(つき)添(そ)われて校庭に集まり伊豆(いず)湯ヶ島落合楼(おちあいろう)へと出発しました。あの朝、米山校長先生のいわれた「烏合(うごう)の衆(しゅう)に((1))なるな」の御教(みおし)えは「人にしてもらいたい事は人にもしなさい」という御言葉(みことば)と共(とも)に、今もなお深い意義(いぎ)をもって私共(わたしども)に迫(せま)って参(まい)り、先生の偉大(いだい)な御人格(ごじんかく)に本当に頭が下がる思いが致(いた)します。

その時は辛(つら)く悲しく思ったことも、今想い出せば本当に嬉(うれ)しい、狩(か)野川(のがわ)、天城山(あまぎさん)、浄(じょう)蓮(れん)の滝(たき)、吊(つり)橋、玄関(げんかん)前の噴水(ふんすい)――こうやって湯ヶ島を想い出すと、あそこでの生活の1つ1つが生き生きと甦(よみが)えって来ます。当時のクラスの人(ひと)達(たち)が皆本当に仲良(なかよ)しなのも疎開(そかい)に行ったからこそなのです。苦しみを共(とも)にして来た者だけが得た真の友情(ゆうじょう)があるからなのです。

起床(きしょう)の鐘(かね)に始まる1日の行事の全てが鐘(かね)を合図になされました。自分の持っていった食器(しょっき)で食事ができなかったのは翌日(よくじつ)早々(そうそう)の失望(しつぼう)でした。夢中(むちゅう)で過ぎた1週間の後に襲(おそ)って来たホームシックに皆(みな)が感染(かんせん)し、手紙を家に書いて前を流れる川にいくつも流しました。手紙はすべて検閲(けんえつ)されなければ出せませんでしたもの。庭のどんぐりを食べて足中おできだらけになり皮膚病(ひふびょう)によいといわれた野天の木立温泉(おんせん)に一生懸命(いっしょうけんめいい)通ったことを想い出して苦笑(くしょう)を禁(きん)じ得(え)ません。灯火管制下(とうかかんせいか)の((2))薄暗(うすぐらい)いだだっ広い廊下(ろうか)を夜中1人で歩くのはそれだけでもスリル満点(まんてん)なのにお帳場((3))の黒猫(ねこ)が眼(め)ばかり光らせて御不浄(ごふじょう)の((4))戸を手であけて入って来るのはまさに身の毛もよだつ怖(こわ)さでした。お帳場近くの部屋の誰(だれ)もが数度は経験(けいけん)した事でしょう。

湯ヶ島の春、それはわらび狩(が)りの一語に尽(つ)きます。溢(あふ)れるばかりの日光と、限(かぎ)りない青空と、若葉(わかば)、私(わたし)はそれまでに自然(しぜん)をこんなに身近に感じた事はありませんでした。もんぺに草履(ぞうり)、それに手拭(てぬぐい)の頬被(ほおかぶ)り姿(すがた)で、お天気さえよければ毎日わらび狩(が)りに行きました。供出(きょうしゅつ)の((5))分まで取らねばならず1度に1(いっ)貫目(かんめ)近((6))くは取りました。藪(やぶ)の中にまだ葉の開かない長いのを見つけたときの喜(よろこ)び、それを根からぽきりと折(お)る瞬間(しゅんかん)の満足(まんぞく)感は、又(また)、格別(かくべつ)です。喉(のど)が乾(かわ)けばいたどり((7))をかじりました。

都会で育った私達(わたしたち)は短期間のうちに何と多くの事を大自然(だいしぜん)から学びとった事でしょう。団体(だんたい)生活の経験(けいけん)と共(とも)に何年かかっても受けられない、偉大(いだい)な教育を、この疎開(そかい)生活から受けたといっても過言(かごん)ではありません。そういう経験(けいけん)ができた私達は、かえって幸福だというものです。きまった枠(わく)の中での生活はお互(たがい)に不平(ふへい)不満(ふまん)も多いものですが、みんなが理解(りかい)し合って辛(つら)い事も我慢(がまん)したのですから人間の完成(かんせい)という面でもプラスになった筈(はず)です。

今も狩(か)野川(のがわ)はあの時と同じ言葉をささやいて流れ、天城(あまぎ)も、どっしりと居座(いすわ)りその麓(ふもと)には平和な湯の町の生活が繰(くり)返されているのでしょう。

とにかく平和な時代が、又(また)めぐって来、当時の先生友人と睦(むつま)じい想いを12~3年前に馳(は)せられる事は本当に嬉(うれ)しい事ではありませんか。

『青山学院初等部20年のあゆみ』(1957年)より再録

 

(1)規律も統制もない群衆。

(2)夜間、敵機の来襲に備え、減光・遮光・消灯をすること。

(3)商店・宿屋・料理屋などで勘定をするところ。

(4)便所を丁寧にいう語。

(5)割り当てられた量を国の求めに応じて差し出すこと。

(6)1貫目=3・75キログラム。

(7)タデ科の多年草。山城さんによると、わらび採りの時に現地の方のまねをして道端に生えていたいたどりをポキンと折ってその汁を吸ったとのこと。甘くはなく、ちょっと酸っぱい味がするそうです。(2015年7月談)

 

昭和20年

6月10日  午後バス2台で湯ヶ島を出発し三島へ向かう

夕食後、三島から汽車で東京に向かう

品川駅での20分間の停車(ていしゃ)時間に家族との面会をする

6月12日  朝、弘前(ひろさき)駅に到着(とうちゃく)し弘(ひろ)前(さき)国民(こくみん)学校の出迎(でむか)えを受け、歓迎(かんげい)会が行われる

その後、小堀(こぼり)旅館と石川旅館((1))へ分かれて宿泊(しゅくはく)する

6月24日  弘前(ひろさき)女学校へ移動(いどう)する

7月16日  船(ふな)沢(ざわ)村へ移動(いどう)、船沢(ふなざわ)国民(こくみん)学校の大きな和室で全員で生活する

7月28日  4軒(けん)の民家(みんか)に分宿する

8月15日  終戦(しゅうせん)を迎(むか)える

9月13日  岩木登山(4・5・6年生男子)、嶽(だけ)温泉(おんせん)(3年生と女子)、登山後の男子も合流し、雨のため嶽(だけ)温泉(おんせん)に2泊(はく)する

10月20日  学童集団(しゅうだん)疎開(そかい)を引揚(ひきあ)げ帰京する

 

(1)石川旅館は弘前城近くにあったが現存していない。小堀旅館は弘前市本町にあり、現在も営業を続けている。

 

6 船(ふな)沢(ざわ)村での生活――富(とみ)栄(さかえ)・久保田(くぼた)家       5期生 井上(いのうえ)(岩本(いわもと))文子(ふみこ)

都心に暮(く)らして居(お)りました私達(わたしたち)家族は、昭和19年、近くに横穴(よこあな)式の大きな防空(ぼうくう)壕(ごう)のある郊外(こうがい)へ転(てん)居(きょ)して昭和20年3月の大空襲(だいくうしゅう)の難(なん)を逃(のが)れましたが、5月に入り、東京の空襲(くうしゅう)が連日(れんじつ)連夜(れんや)となり、疎開地(そかいち)のない父は子供(こども)の生命を守るために品川駅から再疎開(さいそかい)にお仲間(なかま)入りをさせていただいたと思っております。

弘前(ひろさき)駅では笹森(ささもり)先生の御出迎(おでむか)えを受け、スタートいたしましたが、当時本州と北海道は連絡船(れんらくせん)で結(むす)ばれていて、その攻撃(こうげき)による空襲(くうしゅう)がはじまり、再度(さいど)船(ふな)沢(ざわ)村で4ヶ所に分かれての生活になりました。5年生の女子8人男子3人は久保(くぼ)田(た)家にお世話になる事になりました。久保(くぼ)田(た)家は節(みさお)夫妻(ふさい)とお祖母(ばあ)様、それに御(ご)主人が出征(しゅっせい)された節(みさお)様の娘(むすめ)さんとそのお子様の御(ご)家族でした。新種(しんしゅ)のりんごを手がけていて、銀座(ぎんざ)の千疋(せんびき)屋(や)さんにも出荷されていた様です。

台所の水(みず)廻(まわ)りは蛇口(じゃぐち)になっていましたが、前後に動かすレバで井戸(いど)からタンクに水をあげるのに行列して順番(じゅんばん)にレバを動かすことが毎日でした。調理は囲炉裏(いろり)に鍋(なべ)を掛(か)けて、これも慣(な)れないので当番になると大変(たいへん)でした。それ以上(いじょう)に忘(わす)れられないのはトイレが外の牛舎(ぎゅうしゃ)の奥(おく)にありペロペロされない様に通り抜(ぬ)ける事、更(さら)に夜は一段(いちだん)と大変(たいへん)であった事です。

りんご畠(ばたけ)の草取り、田んぼでの蝗(いなご)取り、岩木神社参(まい)り、弘前(ひろさき)へ映画(えいが)を見に出かけた事等、80才を迎(むか)えても忘(わす)れられないでいます。

戦争(せんそう)により極限(きょくげん)の状態(じょうたい)に置(お)かれた時、御(ご)家族を残(のこ)して、私達(わたしたち)の日々(ひび)の生活を守って下さった先生方、色々(いろいろ)の形でお支(ささ)え下さった船(ふな)沢(ざわ)村の皆様(みなさま)のお蔭(かげ)で病人も無(な)く無事(ぶじ)に過(す)ごす事が出来た事に感謝(かんしゃ)の気持ちいっぱいでおります。精神(せいしん)面でも180度の思想の転向となり、きびしい時代であったと思っています。

帰京の時、弘前(ひろさき)城(じょう)には米兵(べいへい)の姿(すがた)があり、上野駅に着くと駅には屋根が無(な)く、生憎(あいにく)の雨に傘(かさ)が必要(ひつよう)であったことが想い出されます。

当時の先生方がお元気のうちに船(ふな)沢(ざわ)村を尋(たず)ねる機会(きかい)に恵(めぐ)まれなかった事が残念(ざんねん)ですが、その後の焼跡(やけあと)での授業(じゅぎょう)の日々(ひび)、毎日の通学がきびしかった事、学校の存続(そんぞく)に悩(なや)んだ事も、創立(そうりつ)80年を近く迎(むか)える初等部にはありました。

(2014年11月記)