内科・小児科・アレルギー科・リハビリテーション科
吉川内科小児科 生薬方剤による漢方診療(保険適用)

吉川内科小児科は、愛知県名古屋市中村区、名古屋市立豊臣小学校の西にある内科小児科医院です。
高血圧や、肥満などメタボリックシンドローム、リセット禁煙、漢方診療(保険適用)を中心に
内科・小児科・アレルギー科・リハビリテーション科の診療をしています。お気軽にご相談ください。

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吉川内科小児科 生薬方剤による漢方診療(保険適用)

吉川内科小児科は、愛知県名古屋市中村区、名古屋市立豊臣小学校の西にある内科小児科医院です。高血圧や、肥満などメタボリックシンドローム、リセット禁煙、漢方診療(保険適用)を中心に内科・小児科・アレルギー科・リハビリテーション科の診療をしています。お気軽にご相談ください。

徒然日記

惜別の歌

「旅ことば」の旅  中西進  ウェッジ

 人間に離合集散の悲しみをあたえるのも、旅のならいだろう。そのひとつとして、今も卒業生を送る宴などに歌われる「惜別の歌」がある。

  遠き別れに 耐えかねて

  この高楼(たかどの)に のぼるかな

  悲しむなかれ 我が友よ

  旅の衣を ととのえよ

作詞は文豪・島崎藤村。というより藤村の処女詩集『若菜集』におさめられた詩「高楼」(原詩はすべて平かな、旧かなづかい。いま適宜漢字をあてる)の改作である。

 『若菜集』の第4章には「深林の逍遥、其他」があり、その第3の「合唱」の4として「高楼」と題された8連の詩がある。その内の第1,2,5,7連が用いられた。

 合唱というとおりに「高楼」は妹と姉が歌い合う形式をとる中で、第3行が「悲しむなかれ我が姉よ」とある。これを作曲者が当面の情況によって「友」と換えた。

 作曲者は藤江英輔。作曲には重大な契機があった。

 さる太平洋戦争の末期、大学生の男子は兵として戦地に送られ、中学生など、より若い生徒は男女とも工場で兵器、銃弾などを造らされて、勉学を拒否された。

 その中で当時大学予科生だった藤江は陸軍造兵廠にいて、友人が学徒出陣――学生の身で徴兵を受け戦地に送られることとなった時、「高楼」の一句を「友」と換えて痛恨の惜別を歌った。1944年12月のことだ。

 藤村の原詩は、それが可能なほどに普遍的な人間の情を歌ったものだったことがわかる。

と同時に、死地に友を送る別れは、姉妹の離別ともひとしい惜別であったことも、知られる。

 戦争とは、男から命を奪い、女から愛を奪うものだというが、もとよりこのように、男からも、友情という愛を奪うものであった。すべての人間から「人間的なるもの」の悉(ことごと)くを奪うものが、戦争である。

 この藤江の作曲はその時造兵廠にいた多くの人びとの共感をよび、とりわけ女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の生徒たちを感動させた。そしてこの歌は、彼女たちを通して、戦後、後のちの生徒たちへと、感動の波をひろげていった。

 この結果が、先にのべたような、卒業生を送る折の歌などとなって、いっそう広く――当時の流行を知っているわたしの実感では、おどろくほどに速く、惜別の情を多くの人びとに広めていった。

 しかもこの歌の来歴など、まったく知られずに、つまり何の説明も必要なく歌そのものの力によって、無数の人びとの心に刻まれていったのだった。情況を越え、旅立つ者が残していく罪深い置土産としての「惜別」を訴えつつ。

 ただ、いまは藤江の曲が生きて帰らぬ人びとの旅立ちに寄せるものだったことを忘れてはなるまい。

 300万人の日本人が死んだ後の、空虚な灼熱の日が、毎年8月にめぐって来る。