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吉川内科小児科 生薬方剤による漢方診療(保険適用)

吉川内科小児科は、愛知県名古屋市中村区、名古屋市立豊臣小学校の西にある内科小児科医院です。
高血圧や、肥満などメタボリックシンドローム、リセット禁煙、漢方診療(保険適用)を中心に
内科・小児科・アレルギー科・リハビリテーション科の診療をしています。お気軽にご相談ください。

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徒然日記

学童疎開船「対馬丸」遭難事件

疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり 平成9(1997)年 天皇

       象徴のうた  平成という時代  永田 和宏(歌人・細胞生物学者)

 

太平洋戦争末期には民間人にも多くの犠牲者が出たが、なかでも最も痛ましい事件として記憶されなければならないのが、学童疎開船「対馬丸」の遭難事件である。

昭和19(1944)年8月、対馬丸は沖縄県内の国民学校児童らを乗せて長崎に向かう途中、米潜水艦の魚雷を受けて沈没。学童約780人を含む1500人近くが死亡した。

同年7月にサイパン島玉砕を契機に「次は沖縄」と見た政府は、沖縄県下から学童を本土、あるいは台湾へ疎開させよという指令を出した。だが当時沖縄周辺の海域は、すでに米潜水艦の跳梁(ちょうりょう)する魔の海とされ、多くの親たちは子どもの疎開にしり込みした。しかし「軍艦で行く」「護衛艦も一緒だから安全だ」と半強制的に学童疎開が実施されたのである。

対馬丸は21日の夕方に那覇港を出港、翌日午後10時すぎに魚雷によって撃沈された。軍艦といわれていた船は、実は自転車並みの速度の貨物船であった。しかも護衛艦2隻は救助もせずに逃げてしまったとの生存者証言がある。対馬丸遭難は軍の機密とされ、厳しい緘口令(かんこうれい)が敷かれた。家族の問いに泣きながら「知らない」と口をつぐみ通した児童もいたという。

対馬丸の沈没した位置を確定し、引き揚げることは遺族らの悲願であったが、平成9年(97年)12月12日、実に53年ぶりに鹿児島県トカラ列島悪(あく)石(せき)島近海で、ついにその沈没船が確認されたのである。遺族らは直ちに引き揚げを求めたが、沈んでいるのが海底870㍍と深海であり、引き揚げは困難として断念された。

天皇皇后両陛下はお2人とも疎開の経験もあり、かつ犠牲になった児童らとほぼ同じ年齢であることから、皇太子時代から、対馬丸については大きな関心を寄せてこられた。対馬丸の撃沈された日には、毎年2人で黙禱(もくとう)をされてきたという。

天皇陛下の一首は、対馬丸発見のニュースに接しての歌である。第2句「命いだきて」に、対馬丸という船が、疎開児らの多くの命を、そっくりそのまま大切に抱きかかえるように沈んだと、そうあってほしいという願いのような感情の揺曳(ようえい)を感じることができよう。

天皇陛下は後年平成26(2014)年6月、対馬丸沈没70年に当たり、那覇市を訪れ、慰霊碑「小桜の塔」に供花するとともに、対馬丸記念館を訪れ、遺族や生存者との懇談の機会を持たれた。

記念館では多くの質問をされた。「護衛艦は救助に向かわなかったのですか」「そういうときには助けないという、そういう決まりになっていたんですか」などと重ねて質問され、館長は一瞬言葉に詰まったという。

いったん戦争になれば、国民の命よりも軍備の温存を優先する軍隊があった。また、都合の悪いことには厳しい緘口令を敷いて一切他言を許さない統制があった。

両陛下が記念館を訪問された平成26年は前年末に機密を漏らした公務員らへの罰則強化を盛り込んだ「特定秘密保護法」が成立し、さらに「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定される直前だった。集団的自衛権の論議では他国の船で避難する国民を助けるためという例が繰り返し挙げられたが、最も必要なときにそれがなされなかったのが対馬丸事件でもあった。

両陛下の思いが奈辺にあったかは知る由もないが、私は個人的には、このタイミングで対馬丸に対する関心を国民に示された意味は大きかっただろうと思っている。

(平成30年6月15日  東奥日報)